30年間怒りという感情を持たないと言うことが出来るだろうか?
「せやな、もう、かれこれ30年は怒る言うことはあらへんかったなー」
これは、映画監督である伊勢 真一氏が田川 律さんを音楽ドキュメンタリーと云う視点でフィルムに納めた「ゆめみたか 〜愛は歌 田川 律〜」の中に出てくる田川 律さんの生の言葉である。この実直な発言が田川 律さんと云う人の人柄を全て物語っている。これを麻痺した戦略家と云うのだろうか?むしろ孫子「兵法」の極みを私はそこに垣間見る。
先日、大阪の阿倍野区民センターで行われた「ヒューマンドキュメンタリー映画祭<阿倍野>」の一環として関西初上映となった「ゆめみたか 〜愛は歌 田川 律〜」は、その様な田川 律さんの本来の姿と共に、今まで謎だった事もあからさまに田川さんご本人が吐露されている。その中でも印象的だったのは辣腕音楽評論家であった田川さん(田川さんはあのニューミュージックマガジン創刊に参加されている)が、なぜ舞台監督という仕事に専念されるようになったかというその理由として「どないしたかって偉そうになってしまうやろ。評論するいうことは・・・」と述べられている。これは、頗る考えさせられる発言だった。そして、この映画でのクライマックスで「どないや、考えてみ」とイマジンという単語を日本語にそして、田川さん自身の言葉にしてしまった場面では田川 律さんという人となりを確かにそこに見た。
その後、長きにわたり共に活動されている大塚 まさじ氏とのミニライブが行われ、大塚 まさじ氏の楽曲と共に同氏と田川さんが協働で創られた楽曲を演奏。(ビデオは、金子 マリ氏も歌った「うた」という楽曲で、今回の田川さんの映画に於けるメインテーマ的な曲でもある)
次回の「ゆめみたか 〜愛は歌 田川 律〜」上映予定は以下の通り。
9月10日(水)
大阪市森之宮・大阪青少年会館プラットホーム
大阪市中央区森ノ宮中央2-13-33
14:00~ 第一回上映
18:30~ 第二回上映/トーク(田川律、大塚まさじ、伊勢真一)/ライブ(大塚まさじ)
前売 1,300円
当日 1,500円
問合せ 03-3405-9455(いせFILM)
Archive for 8月, 2008
ゆめみたか 〜愛は歌 田川 律〜
祝!北島選手金メダル
今し方、世界新記録を達成し北島選手が表彰台にて獲得した金メダル。
北京で流れる「君が代」を聞き甚く感動した。
中学高校と続けて6年間水泳に青春を費やしたした私にとっては、彼が達成した偉業に純粋に敬意を払い最大限の賞賛を送りたいという想いしかない。
おめでとう北島選手。
迷妄を払うの斧
「ニーチェを読みふけるようになったら終わりだよ、ワーグナーばかり聴くようになったら危ないよ。」と聞いたことがある。それは、理解できる。その原因は彼らの作品群なり思想が読者或いはリスナーの思い入れを許してしまうところにある。
ともすれば、その圧倒的な破壊力そしてその力が齎す高揚感は曲解することにより方向を間違うと危険なところへ人々を追いやってしまうのは歴史が示すところでもある。
私の今まで歩んできた人生の中でこの二人は様々な場面で登場してきた。それは、既成概念を破壊すると言う思想から生まれてきたパンクムーブメントの拠り所としてであったり、戦争という狂気を有無を言わさない迫力で描ききった地獄の黙示録 "Apocalypse Now" だった。これらの出会いは、どちらかというとアミューズメントパークでジェットコースターに乗るような感覚を得るための娯楽性或いは自己陶酔するためのエンターテイメント的な携わりの域を出るものではなかった。
しかし、とあることを機に私は今までとは全く違った観点より特にニーチェに傾倒していった。私には「迷妄を払うの斧」としてのニーチェの思想が必要だったのだ。何がその契機であったか、又、私が何をして迷妄とするかについては、私が以降に主張したいことと相反する為、私自身が今後より意思疎通能力或いはコミュニケーションをする力を研鑽し然るべき表現力を会得したとき何時の日か改めて説明したい。
何れにしても、自らのおかれた状態は自己撞着以外の何者でもなかったといえる。その様な状況下で触れたニーチェの作品群は、以前出会った既成の概念やモラルをダイナマイトで爆破していく痛快な発破師と言う私が抱いていた彼のイメージとは全く違った側面を私に提示してくれた。
それは、彼がアフォリズム的に発した「人間が復讐から解放されること、これが私にとって最高の希望への橋であり、長かった悪天候ののちにかかる虹である。」と言う所謂「ルサンチマン(怨恨)の哲学」の礎となる考え方を披瀝して以降、世に当然として存在する道徳や正義を次々と打倒していったその先に辿り着いた彼岸であった。
真理の誤謬を説き神こそが根本誤謬であると毅然として言い放ったニーチェをして否定し得なかったのは、
「自分に悪意を抱いているものに対して、言葉によってもまた心の中でも決して抵抗しない。」と言うことを生涯実践したイエスの存在であり、
彼がほぼ例外的に手放しで賞賛する
「敵意によりては敵意は終息せず」を復唱句とし、復讐や、嫌悪や、怨恨(ルサンチマン)といった感情に陥ることを、何にもまして警戒すべきであるとの仏陀の教えを持つ仏教であったのだ。
最終的にニーチェが至った永遠回帰というのは、非常に難しい概念であるかのように思えるが、彼がそれを最高の肯定であるとした事は問題提起の天才であったニーチェが当然帰結するべき所へ帰り着いたと考えれば、本来は私達が心を平静にし、晴れやかにしていればスーッと楽に受け入れられる至極容易な事であるのかもしれない。
史上二回目となる長崎への原子爆弾投下の記念日である今日、絶対平和をも超越した宇宙的な平和を示唆したニーチェの言葉を今一度確かめ彼がそうであったように自らを常に自己更新できるように備えたい。
"Dona nobis pacem"
"Dona nobis pacem"とは、ラテン語で英訳すると"Give us peace"
日本語では「平和を我らに」だろうか?
そして、"Dona nobis pacem"とはローマ・カトリック教会のミサ曲を構成する楽章の一部であった"Agnus Dei"(同じくラテン語で英訳すると"Lamb of God"つまり「イエス」のこと)の元々一環であったが、それをJ.S.バッハがミサ曲 ロ短調 (BWV 232) の最終楽曲として独立させた楽曲のタイトルでもある。
「平和を我らに」
原爆記念日である今日、
私達日本人にとってこれほど切実に冀求すべきスローガンは他に考え及ばない。
しかし、現実はどうだろうか?
"Freeze Nukes"「核廃絶」, "Total Disarmament"「完全武装解除」などと言う言葉が空虚な絵空事と成り果ててしまっているこの現況を憂い、知恵を持って「平和を我らに」と世界へ対して絶対平和を訴え続けなければならないのは唯一の被爆国である私達日本人であることは間違いない。

